ホリゾンタル・トーナリティ③

2017/11/09


「G.ラッセルの躓き」の部分をもう少し深く検証してみましょう。
完全5度堆積の弱点に注目するのです。

本来はHorizontalであるはずの旋律・ウタも実は倍音により完全5度上と長3度上を濃く含んでいます。

...

完全5度の音があると認識した場合、C-G-D-A-E-Bのヘクサトニックの時点で、すでにリディアンは完成します。F#を選ぶということはヴァーティカルには美しいのですが、同時にC#も取り込まれてしまう。

これはCから見たら「方向」の「G」に調性が移動してしまうという、「C」にとっては押してはならないボタンのようにも見えてくるのです。
トライトーン分割の次のオーグメント分割をすると更にC#-F(E#)-Aとなり、♭方向のFまで含んでしまう。

これがラッセルですらもスキップをした理由です。「半音上」はトニックキャンセラになると、一番後ろの序列に回したのです。
ここを「ブルーノートと調性」の著者/濱瀬元彦にも叩かれた訳です。

そこだけ、意図的にスキップはおかしいだろうと。

しかし、構造と作曲行為は実は相容れない部分があるからこそ良いのです。
絶対的な存在として倍音構造はありますが、その中で何を優先するかは人間が決めたって良いのです。
ただ、どれが絶対的に正しいという話にしてしまってはそこに「創作の余地」はなくなるのです。
G.ラッセルは「CMaj.」ではなく「Clyd.」を選びとったところが偉大なのです。
特許とは言えないまでも、機能和声から脱却した新たなモノサシを提示したことはやはり大きいと言わざるを得ません。

武満もそこに感銘を受けたのでしょう。
そして、武満流に理解、創作していったのです。
彼は平気で「#1」もコードに組み込んでいるのです。時にはオクターブ以上離して、時にはクラッシュを恐れずに半音で。
若しくは他の調性に移る際のモジュール(装置)としているのです。

ラッセルはこれを「従来の古典和声と相容れない」ためという理由にしているところが、やや「教育的」になってしまったということです。
これでは絶対的な概念を探していた多くの音楽家にとって何だラッセルも無理じゃねぇか。
と落胆させる材料になったのも当然です。

しかし、私が濱瀬さんが「お門違い」だと言ったのは、新しい教育的な見地を見付けることも一つの発明と言えるからです。
それも機能和声よりももっと柔軟なものを。
神学者のメシアンなどはこう言うことは許せない訳です。
彼にとっては均等分割こそが絶対的であり、移調を限ることによる音世界に論理的帰結、信仰の帰結を見出だしたことが重要だったのです。
ジャズなどといういい加減なフィーリングによった音楽など「邪道の極み」であるという態度を終生取り続けたのです。

武満はもっとしなやかな頭を持っていました。
「存在するものは仕方ない」
それをどう受け止めるかが大切なのではなく。
有るものは受け止めて、そこから自分で自由に選べば良いと考えたところが彼がある意味でメシアンの亜流ではないという証左です。

武満はデューク・エリントンの曲にメシアンとの一致を見出だし、メシアンに指摘したところ、メシアンは「そんなものと一緒にするな!」と激怒します。
その後の武満の質問は更にユーモラスです。
「あなたはシュール・レアリストですか?」とメシアンを焚き付けます。

勿論、メシアンの怒りが頂点に達したことは言うまでもありません。

武満はメシアンをとても信奉していますし、相当な影響を受けてもいるのですが、究極的にはメシアンとは相容れないことを確認したとも言えるでしょう。

そこで自分の音楽的な地平を確認したとも言えます。

日本のアカデミズムどころか、もっと広いはずの西洋のアカデミズムでも武満に驚異を抱いた要因は、彼のこの冷徹なまでの「リアリズム」なのです。

そして、創作とは新たな理論を見付けることではない。と考え抜いたところが古今の凡百の作曲家との差なのです。
アカデミズムは残念ながら、どこまでいっても「根拠」や「お墨付き」がないと一人で立てない脆弱性があり、ホンモノの創作の無限(間)奈落(むけんならく)とは闘えないということです。
理論武装や概念提唱しかできていない。

創作することにおいては武満徹という天才に遠く及ばないのも当然なのです。










文責:彦坂

 


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