メルロ=ポンティの思想と音楽

2018/03/01


音楽と絵画のちがいについてメルロ=ポンティ(フランス/1908-1961)はこんな風に書いている。
【音楽は、世界や具体的な名前の付いているモノの余りにも手前に存在しているので、存在の純化された原寸図以外のもの、つまり存在の潮の満干、増大、破砕、渦動以外は描くことができない。画家だけがいかなる評定の義務をも負わされずにあらゆるものを見つめる権利を持つ】

こんなことも言っている。
【リンゴをいかにもリンゴらしく再現する古典主義、リンゴから受ける間隔を色彩に転写する印象主義、自己の内部を表出する表現主義、抽象化してしまう抽象主義】

音楽は確かにどんなに頑張っても、そこに見えたものをそのまま表現することは不可能である。
実は絵画もインクをカンバスに擦り付けているだけなのでそのものを作っているとは言えないのであるが、視覚的にはそのものを描くことにおいて音楽よりも優れている。
彫刻ならどうか。
これはモノ(物体)を表すことにおいては最も確実であろう。少なくとも形にするということにおいては美術も音楽も文学も全く敵わない。

メルロ=ポンティにとっては音楽よりも美術の方が重要性があった様である。これは個人的な嗜好も多分に入るので単にそれが正しいかどうかを問題とすべきではない。

寧ろ、メルロ=ポンティの言葉を読んで音楽家としてするべきことは何かが、より明確になってくるようにも思える。
音楽は視覚や嗅覚を刺激することは非常に難しい芸術である。
聴覚や「振動を感じる」触覚に依存した芸術であると言える。

しかし胎内に居た頃の自分を思い起こすと恐らく最も発達していたのは聴覚なのではないだろうか。触覚もあるが少なくとも視覚ではない。

より根元的で宇宙的なものを描くことに音楽の使命のようなものがあるという気がする。
その為よく、音楽はそれ自体でしかないのだから「タイトル」やその作家の生い立ちなどは関係ないとする意見もあるが、私はそうは思わない。
タイトルから想起されるものと音楽がどう一致するかもしくはアンマッチであるかを楽しむのも音楽の面白さなのである。
下世話に音楽家の私生活とその音楽との乖離を嗤うのもまた一興ではないだろうか。

音楽は何も表現(具体的に)し得ない無力なものであると同時に、もっとコズミックな次元においては、どんなものでも表現できる唯一の芸術であるとも言えるのである。
絵画的なセンスのある音楽家もいれば、形式主義、音は音でしかないとする傾向が強い音楽家も居て良いのであろう。

愛されることも勿論大切であるが、あいつとは2度と会いたくない。あの音楽は2度と聴きたくない。と意識的に拒絶されるくらいまでのものが作れればそれはそれで本望なのである。


ぶんせい文責:彦坂

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