女の一生

2017/01/03 [映画・映画音楽]

【映画/女の一生】(1967)

監督:野村芳太郎
原作:ギ・ド・モーパッサン(1850-93)
脚本:野村芳太郎、山田洋次、森崎東...
音楽:林 光
出演:岩下志麻、宇野重吉、田村正和、栗塚 旭、左 幸子、竹脇無我、小川真由美

太宰治も愛したフランスの文豪モーパッサンの作品を、舞台を「日本」に置き換えて綴らた娯楽映画の名作。
監督は長年、黒澤明の助監督を務め「日本一の助監督」とまで言わしめた野村芳太郎。
独立後はモスクワで審査員特別賞を獲った名作「砂の器」や「事件」/「昭和枯れすすき」等、主に社会派ミステリーを得意とした。

清楚で美しい伸子(岩下志麻)は信州の良家の一人娘として愛されて生まれる。
しかし、結婚相手は美男ではあるが、伸子と姉妹の様に仲の良かった、肉感的な女中を孕ませたり、近所の奔放で美しい人妻(小川真由美)に手を出し、その旦那に射殺されたりと散々であった。

「あんな男との子供は産みたくない」と言いながら出来た長男・宣一(田村正和)が未亡人になった伸子の唯一の心の支えとなるが、彼も父親の血をしっかりと受け継いでおり、高校生にして女遊び、金の無心、無免許運転での事故と問題が絶えない。
更に追い討ちをかけるかの様に、どんな事にも動じなかった毅然とした父親は入浴中の心停止でこの世を去る。

十数年後、東京に出た宣一からは「会社を起こしたが騙され、無一文になった10万円送ってくれ」と催促の手紙が来たのを機会に白髪も増え、めっきり窶れた伸子は東京に行き息子を取り戻しに行くことを決意するがそこには...。

・・・・
今なら笑ってしまうような典型的な「ドロドロの昼ドラ」だが、やはり役者が違う。
娯楽作品の中にも「気品と迫力」を感じさせる。新しくも安っぽい「平成」にはない、戦争を体験した「日本の昭和」の強さがある。

どうしょもないダメ男でも結婚したからには別れないという昔ながらの「立派な女性」は今の女性には少し滑稽にすら感じるかもしれないが、そこには確固たる「女の意地」が存在している。
後年、「自分と家」を裏切った女中(旦那と通じた為、家を追い出された後に別の男性と子連れ結婚)が夫と死別して家に戻ってくるが、そこにはもう「敵」という概念はなく、「女同士」として戦友の様な関係が構築されてくるところ等は「女性の奥深さ」を覗かせる。

こう見てくるとダメな男ばかりが強調されるが、立派な父(大旦那)もかつては羽振りが良く女の噂が絶えなかった粋人。
夫も「あなたに説教される謂れはない」と全く大旦那の注意に動じることはない。
遊び人に見える息子も「うちの親父は愛人の旦那に殺されたんだろ!俺がどんなに恥ずかしい思いをしたか」と伸子と祖父に本音で迫る。

男のどうしようもない「性」とそれに振り回される女が存る一方で、その「性」を利用し逞しく生きる女も居るのである。

男と女がなぜ分かり合えないのか?
それは、お互いに自分では抑制の困難な「生理」を抱えて生きているという共通項はありつつも、その生理の周期も強さも、波の行きつ戻りつも食い違っているからなのである。
これを理性で抑えて「健全な社会生活」を営んでいくのが「一人前の大人」なのであろう。

しかし、モーパッサンの自然主義というのは「人間は本能を完全に抑止することはできない、それが真実だろ」というスタンスをとっている。
「一人前の大人」しか居ないような社会もさぞ殺風景なものであろうと。

「芸術」はその総てをさらけ出すと同時にあたたかく包み込む。そして、それを鑑ずる者に生き方を問うてくるのである。

「世間×家庭」、「都市×田舎」、「男×女」、「安定を手に入れ熟した女×今を生きるのに必死な若く魅力的な女」、「一家を支えてきた立派な親父×その価値観や古い因習に縛られる事を疑い、生理に抗えない情けなさにも悩む若い男」
これらを「時代」を軸として、様々な「人情絵巻物」として描く野村は、黒澤よりも遥かに解りやすくテンポが良い。

こういう映画は私程度での音楽家でも楽に音楽が付けられそうだが、やはり名匠の林 光。
ドラマが既に「ドタバタに歌ってくれている」ので必要なところ以外は音楽を入れていないところは流石。

日本の音楽家は彼から学ぶところは非常に大きいであろう。
ある人が彼に弟子入りに行った際、林があまりにも「フツーのパッチを履いた、髪ボサボサの汚いオッサン」で幻滅したと書いていたが、彼の音楽は正に自由奔放でオリジナリティに溢れている。
日本を代表する作曲の巨匠である。

















音楽豆知識