「閉じた眼Ⅱ」に見る タケミツトーン

2018/10/25 []





武満の後期のピアノ作品。



下記はピーター・ゼルキンに捧げた「閉じた眼Ⅱ」の最初の音群を圧縮したもの。



やはり、晩年に近付くほど「リディアン・クロマティック・コンセプト」への深い理解と、彼自身の驚異的な音感が浮彫りになってくるように思う。



この一小節だけでも並みの曲の一曲分以上の音楽性を感じる。

但し、劇伴を除いて武満に唯一欠けていたのが西洋的、民謡的なリズムである。この点だけは本当に徹底している。



究極的には「作響」の人であったと言いたくなるところなのだが、彼の場合はあくまでも「調性とウタ」を意識しているのが見て取れるのである。



この音群でまず注意を向けたいのは何種の音が使われているか。

➡「CisとDes」が重複しているのでトータルで9音が選ばれているのが分かる。



いやいや、これは無調だよ。

適当に思い浮かんだ彼の発明だろうと言う意見も否定はしないが、私は彼のノートに「My Choice」と書かれた「音群1➡音群2」の写真を見たことがあり、これは「リディアン・クロマティック・コンセプト」の発想だと確信している。

それに彼はモノトーンになる手法による無調に対して興味が薄かったことはインタビューや著書を全て読めば分かることである。



彼の書き方は「縦(Chord )」になっていて配置にも配慮がなされていた。

そして、音群➡音群の中の各音の移動(Horizontal)を表す矢印までも書き込まれていたのである。 



セリーの場合はこういう発想は普通はしない。



「声部の移動」という発想自体は十二音だろうがピッチクラスセットにおいても皆無ではないのだが、彼の書き方、選ばれた音達を見ていくとそれは必ず9音か、多くても10音が多く更に「主たるリディアンスケール」までも透けて見えてくるのである。

これには少し訓練を要するが...。



ただ、彼が並外れているのは「配置の妙」である。

中心音を無くすのではなく「ボカす」、「有らぬところに置く」ことで特殊な音響と調性の際までたどり着いているのである。



そして、この和音は完全に「Pan-Tonal(複数の中心を持つ)」に設計されている。

決して「A-Tonal(中心が無い)」ではないのだ。詳細はコンセプトの核心に触れるので述べられないが...。



「D♭-E」と「G♭-A」の二組が拮抗しているのである。(音価の短いG♭(F#)は短いがど真ん中に短2度ぶつけて配置されているのが気になる。この後はダンパー。



目眩ましは「E♭やA♭(G#)」。

しかし、これらは精緻に見ていくと中心ではない。



調性のグラデーションにおいて、普通の耳には判別が困難な崖っぷちの様なところで調中心がせめぎあいながら、同居しているのである。

これは安直な無調よりも遥かに神経を使う。



ある意味で究極のシステマティックでもあるのだが、彼の音楽はフィーリングの強度が遥かに高いのは聴けば分かること。

非常に「音響」に意識的な「作曲」と言えるのである。

バッハのフーガ的な要素を、十二音やリズムやダイナミクス以外でやってしまったのは「現代音楽」において彼くらいなものなのであろう。 面白いことに音の組み方に関してはラヴェルの影響の方が強い。

しかし、感性はドビュッシー。



当初はヴェーベルンやメシアンを模倣している様なところがあったのだが、最後は全く異なる地平に立ったのである。

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