【To The Edge Of Dream(1985)】 作曲:武満 徹

2019/03/18



 



機能和声の分析は意味を成しません。
他の尺度も合わせ業でやって論理をこじつけることは多分可能ですがやりません。

「響きの連鎖」を塊で掴むことや、どういう基準で音を選んだのかを考えるのが彼を聴くコツです。何々形式や何々主義で書かれてはいないから分析が困難なのです。

実は音列と数列を入れていた時がありましたが、彼はそれを「ネタ」としか思っていませんでした。
それ故に非論理的であり、首尾不一貫なので訳がわからんと敬遠されてしまうのです。更に「感覚面」においても人の何千倍もの集中力で書いているので、ポップにもなりませんでした。

ちなみに、武満徹の音楽には4本の柱があります。
それは、メシアン(主に同型移高/カラオケのキーチェンジャーと同じ手法)、ドビュッシー、リディアン・クロマティック・コンセプト。
そして、雅楽(日本的な時間の概念)です。

書いている時期によって、とても実験的になってしまい聴く人には全く意味のないことをしている時もありました。

それは1970年代頃までの作品に顕著ですが、仕方がありません。
当時は「前衛芸術に在らずば芸術にあらず」という風潮が現在の何百倍も強かったからです。

本来、芸術分野(大衆におもねらない)作曲は書きたいものを書くことなのですが、この時代はアカデミズムに書かされている時代だったのです。
一種の「排他主義」とも言えます。売れない人達の売れたくもない人達の相互扶助。
今の音楽大学の作曲学科にもその残滓があるわけです。

色んな意味で権力と実力(どうしょもないけれども作品を書いている)があるのは東京音大の西村朗くらいで、あとはみな教育者か追従者ばかりだから全く面白くないのです。
まぁ、伊佐治 直(すなお)なんかも若手では結構面白いと思っていますが明らかに小粒です。

それに対抗せずに大衆音楽と絡まり合いながら生き残っている巨匠が池辺晋一郎さん、三枝成章さんです。彼らは器用なので売れる音も書けるのです。そして技術があるだけで当時は仕事が山の様にありましたから、彼らは経験の数が半端ではありません。
今の若い作曲家がどんなに頑張ってもこなせないくらいの仕事をしてきている強さがあるのです。

そんな中でも武満さんだけは異質も異質。
アカデミズム互助会には入らずに、海外も含めて純粋に音楽を突き詰めたのが武満徹なのです。
確かに映画音楽で彼は稼いでいましたが、全くポップではなく、そこも彼にとっては実験の場であったのです。
他の方が半ば割り切って書いているなか、武満だけは純粋な音楽作品と変わらない熱量で映画音楽にも向かっています。

こんな人は後にも先にも出ないでしょう。
常に自己の音楽が最優先という。
唯一、ハリウッドだけが彼にやりたいことをやらせませんでしたが...「ライジング・サン」というC級映画がそれです。
音楽は面白かったですが、彼の思い通りには使われていないのです。

1980年代の作品はコード化が出来ますし、それさえ分かれば、後はどんな音を付加しているかを見れば良いだけです。
それが「メロディ」にも同じ態度で接しているから難しい。どうせならメロディだけは歌謡曲にしてくれればもっと彼のスゴさが広まったのにと思いますが。彼はそこもカムフラージュしてしまいました。

吉松隆さんが「歌を書けなかった作曲家」として武満さんを挙げていますが、歌を書いたら現代音楽界には見てもらえない時代だったのです。
未だにそんな下らないことが続いているのは、本当に歌が書けない人達が自己保身の廓(くるわ)を守り続けているからです。
技術は小出しに教える、本質は自分達にも分かっていないので濁す。
非難されれば「あなたのような学歴もない人に何が分かるの」と拒絶して終わりの楽な商売です。学歴を表記せずに今の地位を保てる人がどれだけいるかが本質を物語っています。

時には武満さんを味方に引き入れ、時にはあいつは訳が分からんと突き放す。随分なご都合主義ですし、本当に彼のスゴさが分かっている人がどれだけ居るか怪しいものです。

自分の耳と目で確認をしてください。
武満さんの音楽だけは。

解説とか評判が何の意味も成さない稀有な音楽を書いているのです。



文責:彦坂

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