【雨の樹 素描Ⅱ】(1992)武満 徹/分析 こんな短9度は使っていいの???

2019/07/06


武満徹の語法は主にメシアン、ドビュッシーの音楽を柱としていますが、それと同時に同時代の現代音楽家達、特にジョン・ケージの思想に大きく影響されています。

また、雅楽やオーストラリアのアボリジニ(先住民)、ジャワのガムラン、ケチャに至るまであらゆる民俗音楽やポップミュージック、ジャズも彼の音楽語法に取り込まれています。
悪くいってしまえば節操がない(ノンシャラン)とも言えますが、その点がメシアンやドビュッシーの潔癖性とは又異なる味を醸し出している要因でもあるのです。

更に生涯を通して彼に影響を与え続けた概念がジョージ・ラッセルの「リディアン・クロマティック・コンセプト」なのです。

これは厳密な「書法や技法」というよりも音楽の地平を拡げる「哲学」とも言えるもので、武満は確固たる信念を持ってラッセルの哲学を応用して行ったのです。

1992年のピアノ・ソロ作品「雨の樹 素描Ⅱ」はオリヴィエ・メシアンの追悼の為に書かれたもので、彼の「音楽語法」の影響も大きいのですが、中身を吟味するとそれは純然たる「タケミツ・ミュージック」になっていることが分かります。

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ここでは、9小節目の音を概観してみましょう。現代音楽というのは一般的に「歌」が喪失している事が多いのですが、彼にとってはこれも立派な「歌」なのです。

「A-D-C#-A-F-A♭」というメロディは一般的なモードにはなっていませんが、ジャズの語法としては、さして珍しいものでもないでしょう。

問題はこれを和声的に分析した場合です。機能和声やバークリー・メソッドの根幹には一つの「調性(長・短調)」の確立がありますが、武満の音楽はそこからかけ離れているのです。
幼い頃から機能和声を叩き込まれた音楽エリート層にはこれは「誤り」であり「我流だからやむを得ない」とされてしまうのです。
つまり、彼らの理解の範疇を超えてしまっているのです。

勿論、彼らは「無調」を知っていますから、この音響自体に驚くことはありませんが、その書法の中に「調性なのに違和感がある」と感じさせる部分が散見されることでしょう。

実はこれを解くカギが「リディアン・クロマティック・コンセプト」なのです。
調性というものを「長・短調」ではなく、中世の旋法も含めて大きく捉えるという概念を掴んでしまうと彼の音楽は何と巧妙に出来ているのだろうと感動を覚えます。

彼はこの部分を恐らく一つの「トーナリティ」で把握しています。決してぶつ切りのコード進行ではないのです。

この部分のトニックは「B♭」である。
ということが見えてくると、彼がその中でグラデーションをコントロールしていることが分かります。
B♭Lydianを軸にしてそこにAugment(8)、Dimnish(9)、Wholetone(10)というトニックを分割していく音を絶妙に配合していますね。

恐らくここまでは機能和声で固まってしまった耳にも何とか理解はできるようになるのですが、問題は音の配置(音響構造)にあります。

「Maj,minor,Half dimnish」コードにおいて、原則としては短9度(Maj7と根音の短2度は許される)は忌避されます。
唯一、短9度が認められる「7th」という形態における「根音と♭9th」の同居は許されていますがこれはリディアン・トニックが「トライ・トーン」により移動する為に可能になるのであり、機能和声理論が許しているからということではありません。

しかし、ここでは一見すると「B♭△」の上部構造における「D7とD△7」の衝突の様にも見えてしまいます。
これは恐らく多くの音大出身の作曲家は怖くて使えない音でしょう。商業音楽においても殆ど見たことがありません。

それほどまでにこの響きは「アブナい」という事でもあります。しかし、それは「旧来の規範」に対してであり、音楽に対して「アブナ」くはないのです。

仮にここに「B♭」のベダルが効いておらず、単独で存在しているとした場合にもこの音は普通に使えるのです。

慣れるまではちょっと勇気が要りますが自分の耳で判断して使える音は「いつでも使用可能」ということを忘れないで下さい。
音楽はつまらない、機能和声の授業にも、無機的な無調にも本質は存在していないのです。(個人的な語法、慣習ということは言えますが)




文責:彦坂
 

 


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