歌を作ること(作曲)にもう意味はないのか?

2019/07/12




普段、私は現代音楽作家(主にアカデミズムに足場を置く)に対して冷淡であるが、彼らの「論理」を全て真っ向から否定しようとは思いません。


彼等の多くは、私なぞを比較に上げるのはおこがましい程に西洋音楽の歴史やその思想に通じていますし、基礎的な訓練に裏打ちされた音楽語法の豊富さに於いて「確かなもの」を有していると言えるでしょう。


旋法、機能的和声は勿論、非機能的な音楽、純然たる音響的な発想、更に「音楽」という概念の多様化など、作曲家はあらゆる側面から観察されます。
そして、そこに「新しいものはあるか?」という難題に常に挑戦し続けるべきだという気概は常に持っていなくてはならないと感じます。


「芸術」は常に科学の恐るべき進歩に比して一歩も二歩も遅れを取るものであり、好意的な見方をすればその進歩を冷静に考察し、客観的に総括していくのが芸術の役割だとも言えます。


最近、業界で話題になった「著作権問題」に関しても、科学の進歩から見れば何とも幼い原始的な問題にすら見えてきます。
現在、JASRACに登録されている楽曲(ネットに上がっている様なものを含めてもいい)のメロディとコードの組合せを全てコンピュータに記憶させ、そこから更に新たな可能性も生成していくことにより人間に創造しうるあらゆるウタを歌い尽くすということも、数学的には可能なことでしょう。


少なくとも「調性を持った旋律や和音(進行も含め)、ポピュラー音楽の形式」を使った音楽はもう死滅したと彼等は感じ、新たな発想を持った「楽音以外を使った作響」、または自然音すら音楽という方向性に行くこともやむを得ないとも言えるのです。


極論すれば、全く音楽知識のない者が統計学を駆使してパターン認識による「偽作曲」をし、先回りして楽曲制作者としての権利を主張した場合に多くの作曲家は「盗作者」の汚名を着せられることも現実に起こりうる状況でもあるのです。
あらゆるゲーム(娯楽という意味だけではなく創造性も含め)の中でも知的に高度なものと思われていた「囲碁」や「将棋」に於いても既に「科学」は勝利の凱歌を挙げており、人間の非力さを思い知らされた私達にはもう「創作行為」自体が無意味なものにさえ思えてきます。


私が普段、絶賛をしている武満 徹の「音並べ」に関してもコンピュータに解析させれば、ほぼそれと同等の音響学的強度を持った構造物は作り出せることでしょう。
その上で敢えて訴訟も、機械の二番煎じになることも恐れずに「ウタい続ける意味はあるのか」と彼等(アカデミズム)は問い掛けてきます。


しかし、私はそんなことは百も承知です。
それでもウタを歌い続けることを止めません。
何故なら、そんなことを言っていては人間の日々の営みさえ全て無に帰するからです。


無駄飯を食み、排泄をし、どうでもよい人間関係に頭を悩ませ、仮想通貨集めに奔走し、性の魅力に流され、一時の気の迷いで子供を作ることになんぞ意味などあるか?
そんなものはそのうち機械がやってくれる。
いやぁもう遺伝子レベルのコピーすら可能と言われても私はそこに何の面白味も感じないし、驚異も感じないのです。






しかし、そこに本物の芸術なぞ生まれる余地はないでしょう。
生きながら否応なく吐き出されるみっともないものが芸術であり、その「型」だけを捉えて「その吐瀉物と同じものはもう既に見たことがある」と言われようと、ただただ苦笑を禁じ得ないだけなのです。












文責:彦坂





 

音楽豆知識一覧