調性と現代音楽 バルトークとシェーンベルクから

2019/08/16



「現代音楽」という言葉が形骸化してからだいぶ経つが、未だその存在は作曲家の中にも、音楽愛好家の中にさえも厳然として存在している。
専門家でない人に、クラシックと「現代音楽」を分かつものは何か?
と問われて一番分かりやすく回答する際のポイントは「調性の有無」であろう。

ラフマニノフ(1943没)やガーシュイン(1937没/彼はしかも早逝)等が良い例で、彼らの音楽を「現代音楽」とは呼ばない。

かといってラヴェル(1937没)やドビュッシー(1918没)に冠される「近代の作曲家」という分類が為されることにも違和感を感じる。

まぁ、長生きな人も居るので没年で分けてしまうのもどうかと思うが1つの指標にはなると思うので記せば、

1945年 バルトーク
1951年 シェーンベルク

二人とも戦火を逃れる為にアメリカに亡命した点、音響的に調性が希薄になっている点でとても似通っている。
シェーンベルクは文句無しに「現代音楽の開祖」の様に言われる(一部後期ロマン派に入れてしまえという面白い意見もある)のに対してバルトークを「現代音楽の作曲家」と呼ぶことに抵抗を感じるのは何故か?

それは彼らが「無調」に辿り着いた過程にある。

バルトークはどこまで行っても「歌(調性感のある旋律、単一中心が明確)」に拘り、それを複数散りばめることによって「混沌」を「統合」しようとしたのに対して、シェーンベルクは「中心や支配」というものを忌避したのである。

世界を見渡せば様々な価値観があり、それは決して同化できるものではないと悟り、同時に異なる歌を歌える状況が「平和」だとしたバルトークとは異なり、シェーンベルクは無意識のうちにせよ「無調」という新たな「ドミナンス(支配者)」を生んだのである。

個性の尊重=独裁に繋がるという短絡的なまとめ方は良くないが、簡単に言えばそういうことなのである。
才能があろうがなかろうが音列を作り、並べて行けば「平等な世界」が実現しうると。

勿論、シェーンベルク本人は「無調音楽」の「無調」ばかりが強調されることに哀しみを吐露していた。

「私はあくまでも新しい音楽を作ろうとした」と。

それが、ここぞとばかりに「無調」に乗っかった作曲の能力が乏しい人達にとって「調性」等という面倒臭いものは数理科学的、論理的ではないと自信付ける結果になろうとは夢にも思わなかったのではなかろうか。

シェーンベルク自身ですら、後年に調性を感じさせる様な作品を書くと「保守化した、退行だ」と叩かれたのである。
ストラヴィンスキーなども実はバレエ三部作だけでは無いのに、それ以外は保守的な傾向に戻った、カメレオンの様にスタイルを変えるなどと揶揄される羽目になっているのである。

「無調」というものはただの「技法の傾向」の一つでしかない。
それがスタンダードになってしまった現代アカデミズムが閉塞しているのは当たり前のことなのである。

「調性」を極めたつもりになっている人々の傲りはとても滑稽に見える。

分析においても、音型がどうなっているか楽式や音響的に新しいかに注意が行ってしまい、それらの「音のゴミ」が一体どんな感興を呼び起こすかに全く注意が払われていないところに大きな問題があるのである。

だって調性ではもう新しい可能性なんてないでしょ?
という議論は「人間」といういかにも「古めかしい存在」すら否定することに繋がることに何故気付かないのであろうか?

昔の人間より今の人間の方が優れている、そしてこの先も「進化」し続けると盲目的に信じることが「破壊」にあっという間に繋がったことに対する反省というものの欠如も甚だしい。

以前、私はある現代の作曲家に言われたことがある。
「僕は君の様なスタティック(静的/ある意味で進行/進化がない)なものが書けなくて」と。

それは音楽教育やアカデミズムに対して何の疑問も感じないからだよ。
と教えてやりたかったが、「自分で音を探す」という、ごく当たり前の事を忘れ、何十年もひたすら訓練を積んだ人間には無理であろうと呆れるばかりであった。

過去にあったものを踏襲することが「古い」という言葉は、すべての歴史を学び体験し尽くした人間にしか言えないのである。
時には進まないという選択やまだ見えていない過去が山のようにあることに気付けるかどうかが才能なのである。

そして、それは音楽だけやっていては永遠に見えないであろう。
彼等の多くがアニメ、アニマ、アニムスの世界に逃避する傾向にあるのも興味深い。


文責:彦坂

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