弦楽のためのレクイエム/武満徹

2016/12/30 [和声学]

【弦楽のためのレクイエム(旋法考察)】

武満 徹の当該作品は分析されつくしていると思うが、前にも書いた通り私は彼の作品や著書を読む限り、基本的には「メロディ+コードの人」であると確信している。
歳を重ねるに連れて彼の耳は完璧に拓いていったのである。信じられない勢いで。

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この作品も後年のものも、実はそこまで複雑ではなく劇伴で思い付いたメロディの転用だったりすることは、彼自身も書き残しているし楽譜を見れば分かる。(その時の状況に応じて切り替えていたのであろう)
この出だしのトップノート(敢えて旋律という表現は避けるが)は「Fロクリア」であると感じる。恐らくだが「ドリアとHalf -Whole dim」等の複雑なことは考えていない。
寧ろ、「日本の都節の変型」と言ったら良いか。

彼は当初、「日本的であること」を極度に忌避していたのだ。軍国主義の帝国を。
これは武満が単純な人間であったということではなく、旋律を素直に感じ取れる「感性」を持っていた証であると思う。
それを究極的にリハーモナイズ、対位法(バイ~ポリトーナル)的に処理をしただけであろう。

試しに最も基本的にロクリアから派生するコードでハーモナイズすると、原形が聴こえてくるような気もする。本人が何を考えていたかはついぞ判らぬままだが...。

作曲というものは理屈で考えていない部分が必ずあった方が面白い。それは数理音響とは異なるのである。クセナキスやらリゲティですら恐らく「Feeling」でやってるところが何割かある、必ず。
自己を多様式と分析している作曲家/シュニトケのインタビューは非常に参考になる。

この「Feeling」の割合が最近の作曲家には少し足りないのではと私は感じるのである。
楽譜をいかに綺麗に書くか、左右対称になっているか、規則性があるか、もしくは規則性を廃しているか等々。
いかに「簡単に分析されなくするか」を追って何の意味があろうか。それは「originality」とは呼べない。
「それはそれで作曲である!」とするのが「現代音楽」の地平を拡げたとも言えるが、それは行き過ぎた「法解釈」に見られるのと同様に、大衆を遠ざける結果となったのである。

ただ、私はこれらを否定する必要も感じない。
寧ろ、大衆の耳を拓いていくことこそが必要なのである。
作曲家の中には一人突っ走るタイプも居て良い。但し、一定数はそれを分かってあげられ、判りやすく人々に教えられる人材が要るのである。
そのバランス感覚を養うことが大切である。

・・・
ただ、「ウタ」を忘れてはならない。
音響作品と同時に皆が歌える「ウタ」も伝承し、新しく作ることも追求すべきである。「音響だけの世界」は私には「芯の無い、何でもあり」にしか聴こえない。





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