続・偶然性の音楽

2019/07/27




ケージは「鈴木大拙の禅思想」に影響を受けたという。
私なりの大まかな解釈で云うと彼の「美」に対するセンスは恐らく「人が作るもの」の中には存在しない。

それは人間の驕(おご)りであり、作為的なものは「下等」であり、「自然」であることこそが又は極力、元の形のまま表すことこそが素晴らしいという事なのだと思う。



そういった態度は醜く、美に拘るのもみっともないと。(ケージと関係の深いジャスパー・ジョーンズが武満に諭したとも云われる)

古い頭の日本人の私、は実はよく理解もできる。要は「品がない」ということ。
こうやって自己の考えを恥ずかしげもなく晒すこと等も醜悪の極みであろう。

ただ、ケージの自然との交信としての「チャンス・オペレート」、4分33秒の自然音が音楽の本質かと問われると私は「単なる一ジャンル」としか思えない。
それも、かなりどうでもいい傍系の音楽。

サティの家具の音楽やらヴェクサシオン(何日間も同じフレーズを弾き続ける)なんかも、パッと聞きは面白そうだし、ユーモラスに思えるがそこに「音楽」の本質は無いと思う。

寧ろ、ケージやサティのその「ユーモア、アイロニー」こそが作為的であり、音楽を作れない人間の醜悪な抵抗、嫉妬に満ち溢れていると言える。

サティは美しいものを作っている。
音楽を作るというのはみっともなくて良いのです。人生と同じで。
自己矛盾との壮絶な闘いを、そのままの熱量で出してくる様なものが私は好き。

ミニマルやらライヴ・エレクトロニクス(無作為DJみたいなもの)も手法としては有り得るけれども、一生を賭ける程の価値はない。
それは別のジャンルで趣味でやってくれと思う。

いたづらに聴衆を惑わせるものが有りすぎて、本物が聴かれない今の時代は本当に見ていて悲しいが、その戦場から離脱して達観しているフリをしているものはもっと悲しい。




文責:彦坂

音楽豆知識一覧